6.聖書講話
「私は福音を恥としない」―すべての人々への神の無条件の愛と受容―
荒井 克浩
プロフィール ![]() 聖句 ローマの信徒への手紙1章16-17節 16私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力です。17神の義が、福音の内に、真実により信仰へと啓示されているからです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。(聖書協会共同訳) ![]() 内村の受けた「恥ずかしさ」こそ、大事なものでありました。ですから彼は、パウロの事がよくわかった、と思うのです。「われ福音を恥とせず」と語る切実なパウロの心がわかったと思うのです。パウロ自身、周りから、「そんな神をお前は語るのか。十字架で死んだ者など、弱くてどうしようもない神ではないか。恥を知れ!」と言われていたに違いないのです。 その意味で、私たちは内村に帰らねばなりません。恥ずかしいではないか、と周囲から言われるつらい状況に戻らねばなりません。無教会ブランドは捨てなければならないのです。 今から私がお話することも、皆様からは「そんな恥ずかしい福音を語るな」「神はそんな御方ではない」と言われるかもしれません。しかし本日私が唯一語る資格があろうと思いますのは、当時の内村の窮地を膚身をもって味わうことが出来る――そのことただ一つのような気がいたします。 2年ほど前から、私は本日これから語るような福音を公にし始めました。最相葉月さんという優れたノンフィクションライターがおられます。その方が昨年12月末に『証し―日本のキリスト者』という本を角川書店から出版されましたが、その「あとがき」に6頁にもわたって、私の福音を取り上げてくださいました。それを読まれた方々のご意見は賛否両論のようであります。まさに「お前の語る福音は恥ではないか」というような意見もあるようです。ですから今、私は多少なりとも内村が無教会を語り始めた時の複雑な状況がわかる気もいたします。またパウロが「私は福音を恥としない」と叫ぶように書いた時の気持ちがわかるように思います。 前置きはこのくらいにいたしまして、本題に入らせて頂きます。 (1)信仰は神からの賜物である。 ![]() 「信仰」とは、ある人たちが信仰だと考えているような、人問的な妄想や夢ではない。そういう人たちは、生活の改善やよい行いが結果せず、しかも信仰について多く聞かれ、語られているのを見ると、誤りに陥って、「信仰」では十分ではない。正しい、救われた者となるには、行いをしなければならない」と言う。 信仰とは神の恵みに対する生きた、大胆な信頼であり、そのためには千度死んでもよいというほどの確信である。神の恵みに対するそのような信頼と認識とは、祌に対しても、すべての被造物に対しても、喜びと大胆さと好意とをもつに至らしめるが、これは、聖霊が信仰においてなすものにほかならない。したがって、強制なしに、自ら進んで、喜んで、だれにでもよいことをし、だれにでも仕え、あらゆることを忍び、彼にこのような恵みを示した神に愛と讚美を献げる。火から燃焼と光とを分けるのが不可能なように、行いを信仰と区別するのは不可能である。だから、自分自身の誤った考えに注意し、また、信仰とよい行いとについて、賢く判断するもの ![]() このルターの文章には、本日の箇所に関わる大事なことが記されています。「彼らは福音を聞いても、これに襲いかかって、自分の力で自分のために、心の中で『私は信じる』というひとつの思いを作り上げて、これを正しい信仰と考えるようになる。しかし、これは心の底となんらのかかわりのない、人間的な思い付きや考えであるから、このような信仰はなにも行わず、そのあとにいかなる改善も結果しない」(傍線【1】)、「しかし、信仰は私たちのうちにおける神の働きである」(傍線【2】)。人間の側からの「信じる」という行為は、人間が作り上げたもの―「思い付きや考え」にすぎず、そのようなところからの信仰は何の結果も結ばない。ほんとうの信仰―信じるということ―は、 そしてさらに「むしろ、神が働きかけて、信仰をあなたのうちに起こして下さるように祈るがよい」(傍線【3】)と言います。 ルーテル学院大学名誉教授の徳善義和氏は、このルターの言葉に関して、このようなことを言っております。 福音は神の力であって、そこで働いて、信じるすべての者の救い出しを結果する、という。そこでは「信じる」ことは、その神の力の働きかけを受けるための人間の側の条件ではないし、条件たりえない。「信じる」ことは、そのようなものとして、信じる「者」にかかわり、そしてこれは、神の力の働きの結果に属することである。「信仰は我々のうちにおける神の働きである」と断言したルター(「ロマ書序文」)を思い起こす。神の力が我々に働きかけて、我々のうちに信仰を起こし、信仰を賜物として与えるのである。従ってこれは、信仰をなんらかの形で少しでも、神の働きを受けるための人間の側の条件にしてしまおうとすることに対する、断乎とした否を含む表明である。*2 徳善氏は、ルターのこの文章を参考にしてこう語ります。「『信じる』ことは、その神の力の働きかけを受けるための人間の側の条件ではないし、条件たり得ない」、「神の力が我々に働きかけて、我々のうちに信仰を起こし、信仰を賜物として与えるのである」。そして「従ってこれは信仰をなんらかの形で少しでも神の働きかけを受けるための人間の側の条件にしてしまおうとすることに対する、断固とした否を含む表明である」と言います。徳善氏は、信仰は神の働きの結果である、とここで明言しています。 新共同訳のガラテヤ書2:16には「イエス・キリストへの信仰によって義とされる」という言葉がありますが、その「イエス・キリストへの信仰」は、聖書協会共同訳では、「イエス・キリストの真実」と訳されています。*3 聖書協会共同訳では、人が義とされるのはイエス・キリストの真実によるのだ、という意味に訳されているのです。私はその聖書協会共同訳に共感します。「イエス・キリストへの信仰によって義とされる」のだとすると、信仰、すなわち信じるという行為が、義とされること―救い―の条件となってしまいます。しかしイエス・キリストの真実によって義とされる、となると、イエス・キリストの真実とは神の真実のことですから、人間の側で信じる・信じないに拘わらず、神の側の業によって一方的に、無条件に救われ義とされるのだということになります。信仰は徳善氏の言うように「神の働きを受けるための人間の側の条件」ではない、つまり救いの条件ではない、ということになります。 まず神によって無条件に救われ義とされたからこそ、その者は神によって信じせしめられる、信仰を起こされるのです。そしてこのことを私は「 ![]() つまり「 今、私は「不敬虔な者を義として」(4:5)と言いました。神はその者が優秀でなくても、不信仰な者でも、 (2)神の無条件の受容 それでは神の無条件の受容とはどのようなものか、見てみたいと思います。 イエスは地上において、 Iコリント1:18-25で、パウロはこう語っています。 18十字架の言葉は、滅びゆく者には愚かなものですが、私たち救われる者には神の力です。19それは、こう書いてあるからです。 「私は知恵のある者の知恵を滅ぼし悟りある者の悟りを退ける。」 20知恵ある者はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。21世は神の知恵を示されていながら、知恵によって神を認めるには至らなかったので、神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになりました。22ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、23私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、24ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。25なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。 ![]() ここの「十字架につけられた」のギリシア語は現在完了形が使用されており、完了した動作の生み出した状態が依然として継続中であることを表わしていますので、「十字架につけられたまま」と訳した方がよいのです。*4 パウロは彼の回心において、彼の心の中にこの「十字架につけられた しかしその十字架上で愚かなものとなり弱くされて死んだイエスに、神は「よくぞ我が無条件の愛を貫いた」と、神の然りを与え、復活させたのです。そしてその復活した姿も、実に「 ![]() 神の側からすると、神は神の愛ゆえに 救いとは、弱さから強さに変わることではありません。愚かで弱い者が、愚かなまま・弱い 私たちは、復活ということを、弱さから強さに変わることだと勘違いをしていませんでしょうか。真の復活とは、 無教会においても、優秀な人・出世した人が優れた信仰者としてほめたたえられる場合が、多いようにも思えますが、それは倒錯したものと言わざるを得ません。十字架上の神御自身が一番出世から離れた人であることを確認しておきたいと思います。福音信仰におきまして、出世主義は廃棄したいと思います。無教会の復活は、そこから始まりましょう。愚かなまま弱いまま、あなたのありのまま・そのままでよいのです。 ですからパウロはⅠコリント書1:24で、そのような愚かで弱い十字架につけられたままのキリストが「神の力」である、と言っています。神は愚かで弱い者となりながら、愚かで弱い人間を無条件に受容するからです。それが「神の力」です。ですから本日の箇所のローマ1:16の「神の力」は、 (3)私は福音を恥としない ![]() そのようなあざ笑いの中で、パウロは「私は福音を恥としません」と断言したのです。それは、彼が彼の中にいる愚かで弱い復活者を誇りに思っている、ということの表明です。その復活者が彼の「焼き印」となりました(ガラテヤ6:17)。そしてパウロもまた、イエスが歩んだごとくに、すべての人々への神の無条件の愛と受容を宣べ伝える者とされました。 弱さと強さが、彼の歩みにおいて、共存しておりました。イエスやパウロが生きた、 「正しい者は信仰によって生きる」。これは旧約ハバクク書2:4からの引用です。ここは、私は「真実による義人は生きるであろう」と訳したいと思います。*5 先にも述べましたが、ピスティス(信仰)を真実と訳し換え、「義人」にかかるように訳します。岩隈直が私と同じように訳しています。ここは注解者によって訳が分かれています。神の義、すなわち神の真実によってこそ、その者は神に無条件に受容され、その者に信仰が起こされ、義とされるからです。ここの「生きる」とは、キリストのように、 この度の無教会全国集会のテーマは「福音に生きる」ですが、ここに一つの回答を得ることが出来ると思います。 敵をも愛し受容する。すべての人々を無条件に受容する。これがイエスの語った愛敵の教え―「敵を愛せよ」(マタイ5:43-44)の根幹であり、この教えは本日学んだ「神の義」「神の力」の意味することと重なります。世界の人々が、この真実を知る時に、世界の戦争は終わりを告げることでしょう。 汝の敵をも真実に愛し無条件に受容できるか、本日はそれが私たち一人ひとりに問われています。そのことをパウロは「私は福音を恥としない」と断言しつつ、ローマの人々に、われわれに言わんとしているのかと思います。 本日の箇所は、ローマ書全体の主題の箇所と言われています。そしてルターが「神の義」に関して決定的に気付かされた、いわば彼の宗教改革の原点にも連なる箇所です。同時に私たち無教会の根本精神をここに見出すことが出来ると思います。 ------------------------------------------------------------------------------------------------- *1 マルチン・ルター「ローマの信徒への手紙序文」(徳善義和ほか訳『ルター著作選集』 教文館、2012年、366-367頁)。 *2 徳善義和「ローマ人への手紙第1章16-17節」『説教者のための聖書講解・釈義から 説教へローマ人への手紙』日本キリスト教団出版局、1987年(2017年)、28頁。 *3 ガラテヤ2:16 ●新共同訳 イエス・キリストへの信仰によって義とされる ●聖書協会共同訳 人が義とされるのは・・・イエス・キリストの真実による πίστις Ἰησοῦ Χριστοῦ (ピスティス イエスー クリストゥー) 信仰 イエス・キリストへの ※目的語的属格 (新共同訳) 真実 イエス・キリストの ※主語的属格 (聖書協会共同訳) 【属格】 「イエス・キリストへの信仰」(目的語的属格)として訳すと、信仰(信じること)が救い(義とされること)の条件となる。しかし「イエス・キリストの真実」(主語的属格)と訳すと、人間側の条件と関係なく、信じる・信じないに拘わらず、つまり無条件に、神の側の業(神の真実)によって一方的に救われる(義とされる)という意味になる。前田護郎、佐藤研、武藤陽一などがかねてより主格的属格としての訳を取っている。私(荒井)もこの訳をとる。 *4 Ⅰコリント1:23「十字架につけられたキリスト」 ※他の箇所としてⅠコリント2:2、ガラテヤ3:1 ここの「十字架につけられた」のギリシア語は現在完了形が使用されており、完了した動作の生み出した状態が依然として継続中であることを表わしているので、「十字架につけられたまま」と訳した方が適切である。 *5 ローマ1:17「正しい者は信仰によって生きる」 荒井私訳「真実による義人は生きるであろう」 〝信仰(ピスティス)″を〝真実″と訳し換え、〝義人(正しい者)″にかかるように訳す。岩隈直がこの訳を採っている。 神の義、すなわち神の真実によってこそ、その者は神に無条件に受容され、その者に信仰が起こされ、義とされる。ここの「生きる」とは、キリストのように、すべての人々を無条件に愛し受容する者とされる、ということである。 ![]() |